らっかせい

本橋龍

腰に手を当て思いっきり背中を退け反らせて空の方を見ると雲一つなく途方もない青空だった。周りに高い建物はなく、視界の左端の隅に小さく見える木と、街頭、それだけだ。

学校の中庭の芝生は結構広く、4階建の校舎も視界に入らない。腰が伸びるのが気持ちよく、呻き声なんか出しちゃう。このままブリッジしたいがそんなスポーティーなことは俺にはできない。

この青空は真っ青なのに果てしない深さを感じられるのはよく見ると色のグラデがあるからだ。ふと、重力が空の方向に反転したらと妄想し、なんか不安になる。周りに掴まれるものがなく、一直線に宇宙に投げ出されることになる。せめて視界の隅のあの木の近くにいた方がいいかもしれない。

「じゃあそうするか」

隣でブリッジしてたモリくんは、ブリッジのまま四足歩行で歩き出した。跨ってもいいか聞くと「股間ガチ蹴りするけどいいよ」と。モリくんはこういう時、本当に実行する、そういう凄みのあるやつだ。重力が逆さまになった世界で進化した人類の移動方法がこのブリッジ歩行かもしれない。というどうでもいいボヤきに対してのモリくんからの返事がなかったのはその歩行方法がかなりしんどかったからで、何歩か歩いたところで一度地面に寝そべってから何事もなかったように立ち上がり歩き出した。紺色の制服ズボンとワイシャツに芝生の水滴がついて転々とシミができていた。モリくんは面白いヤツだった。モリくんは、本物だと思う。俺は面白いフリをした偽物だ。モリくんだけはそれを知ってる。木の下までたどり着く。大きくも小さくも無い普通の木だ。

「これで一先ずは」とモリくん。

「せやな」と俺。

今重力反転が起きたとしても、俺とモリくんはこの木の枝に捕まって一命は取り止めるという寸法だ。

中庭の中心では5人の男子たちがボールを上空高く投げるゲームに興じている。より高く投げ、そしてそれを誰かが地面にバウンドする前にキャッチするという2段階の駆け引きをはらんだ絶対に面白いそのゲームに興じる彼らは「くるぶしキッカーズ」というバンドをやってる学内のスター達だ。校舎の窓から何人かの女子が彼らのことを見て騒いでる情景が彼らの人気を証明している。くるぶしキッカーズのセンターにしてギターボーカルのマイキー先輩が渾身の力で投げたボールは、どんな原理なんだってぐらい飛び、4階建ての校舎の高さを超えたように見えた。途方もない青空の深みの中、白球は点ほどになり、そのまま見えなくなる。そう、この瞬間、重力反転。天空に落ちていったくるぶしキッカーズ。校舎の向こうのグラウンドにいたであろう運動部たちも。見渡すと町の人たちも。木の枝にしがみついたまま、たしかにそれらを見た。

blueover 連載企画「仰く/AONOKU」での執筆依頼は2021年11月頭ごろ、デザイナーの一野さんから頂き、すぐに承諾した。同年の2月、一野さんと奈良市のやすらぎの道で「ラバーソールズ」という演劇作品を作った。やすらぎの道を歩いている人に粘土を踏んでもらって靴底の跡を採取し、その形を架空の町の地図に見立て、そこで起こる物語の演劇だった。東京在住の僕は座組みのメンバーと共に公演前の一週間奈良市に滞在した。やすらぎの道周辺を歩き回る最中、「一野さんの靴カッコいいっすね」と雑談。薄いグレー、踵の辺りだけ濃い目のブルーのそのスニーカーはブルーオーバーというブランドのものだと聞いた。ブランドロゴさえないシンプルさにヴィンテージ感のある風合いのそれは、まるで一野さんの身体の一部のようだと思った。そういえば人間という種の足跡は基本的に靴底のものだ。とすると衣服や靴も身体の一部と捉えられる気がする。

…執筆依頼を受け、まず最初にこんな感じのエッセイ的なのを書けば良いかなと思った。しかし、最近お金のなさ、先の見えなさから自己肯定感がカッスカスになってるせいか、誰も知らない俺なんかのエッセイとかマジで興味ないだろ、と思い、一先ずタイトルの「仰く」から連想した高校時代の風景をもとに小説のようなものを書き出してみた。かと言って依頼されている4千字程の中ではそれ程広がるお話しは書けない。だが僕は、その広がりに向かう助走の文書が読むのも書くのも好きだ。「腰に手を当て思いっきり背中を退け反らせて空の方を見ると雲一つなく途方もない青空だった。」まずこの一行を書いた。そこからビックバンのごとく世界が広がる。思いついた言葉を置いてみることでまた景色が広がる。歴史が見える。

死にたいとさえ思ってしまうメンタルの中で、僕は今この文章を打ち込むのが心地良い。余計なことを考えるのはやめる。

何故か落下してるのは人だけだった。少し先に見える職員用の駐車場の車は地面に張り付いたままだ。真上を見上げると葉っぱや木の実が天上に転がっている。この世界の変動は、そういう都合の良さがあった。状況を確認しようとスマホを見たが繋がらない。校舎の屋上のフェンスにぶら下がる形になっていた男女のカップルが、今2人して落ちていった。校舎の窓から皆が空を見下ろして騒いでいる。全く笑える状況だった。

「宇宙まで落ちるのにどんくらいかかるんだろ」モリくんが喋り出す。

「宇宙って明確な境目ないらしいからなんとも言えないよなぁ、スペースシャトルとかISSが飛んでるのが確か高度400キロくらい?一応その辺はまだ大気圏内らしくて。400キロって大体東京と大阪くらいね。東京から大阪まで落下のスピードで行ったらどんくらいなんだろね。リニアモーターカーだと1時間くらいで行けるらしいね。あ、でもスカイダイビングって時速200キロとか聞いたことあるな。それで言うと人の落下速度よりリニアのが倍速ってことなんかな。そんなことある?」

モリくんが何やら話し続けるのをBGMに、これからどうしたらいいかを考える。今乗っているこの木は座れる程度の太さの枝が何本かある。工夫すれば幹に背中を預けて軽い睡眠だってできるかもしれない。しかしこのままな訳にもいかないからまずは兎も角校舎に避難したいのだが、可能性のある渡り廊下の屋根まで10メートル近い距離がある。校舎の中で教員たちが「みんな大丈夫かー」とか叫んでるのが聞こえる。

ていうか空に落下するなんて何秒か前の俺たちは思いもしなかった。

くるぶしキッカーズというバンド名はマイキーがノリで決めた。バンドをやろうと言い出したのは自分だった気がする。高一の時に兄貴から銀杏BOYZを聞かされたとき、世界がひっくり返るみたいな感じがした。それまでオリコンチャートのTOP10にあがる音楽をちょこちょこ聞くみたいな感じだったオレだったけど、「女なんて嫌いだ!ほんとはやりてーな!」と叫んでるの聞いて「これだ」感が凄かった。峯田に憧れて同じ髪型にしたら、あだ名が「おかっぱ」になった。マイキーや他のメンバー、マルコ(ドラム)、フォルス(ギター)、ショーティ(キーボード)に銀杏はそこまでハマってなかったけど、マイキーが好きだった「もしも君が泣くならば」をカバーして去年の学祭のライブでやった時は最高だった。学外でのライブも少しずつ増えて、先輩バンドから「高校バンド止まりだな」とか言われて。世界が結構広い、なんてこともわかり始めたこの頃だった。恒例の中庭キャッチボールの最中、なんとなくこれからのことを話してた。マルコとフォルスはもうそこそこの大学の内定をもらってる。ショーティは就活中だ。オレとマイキーはどうするか決まってない。マイキーは、音楽を続けるんだと思う。オレはというと、正直何もわかんなかった。今やってるベースはいまいち向上心がない。向いてないんだと思う。バンドではほんとはボーカルがやりたかったけど、言い出せなかったし言う権利もなかった。歌が上手いわけでもないし練習する気もなかった。一度バンドに対して、下手でも良いんじゃないかと言ったら皆に猛烈に反発された。でもさ、オレが銀杏BOYZに救われたのって、「そのままのお前でいいよ」って言われた気がしたからなんだ。

瞬間だ!瞬間なんだよ!オレにはこの先の人生とか無限に感じて途方もなくて、わかりゃしなくて。瞬間のことだけ考えてたいんだ。それじゃダメなんかな?野生の動物みたいにさ。もはや人間に向いてないんだよな。

落下を始めてもう何時間も経った気がする。恐怖とか絶望には飽きて、悦に入ってこんなこと考え始めてる。ダサいなんて思う必要もない。だってもう終わるだけだし。手足を動かしてみても姿勢すら変わんない。

「おかっぱ何か面白いことやれよ」とマルコ。周囲の皆の視線が集まる中、オレは着てるもの全て脱ぎ捨て全裸になった。皆、笑いながら同じように服を脱ぎ捨てる。

空が赤くなってきた。

2021年12月19日、夕方。自転車で夜勤のバイトに向かいながら、なんとなくこの原稿をどのように仕上げようか考えている。陽が落ちてきた空を見る。この空の向こうにある宇宙に浮かぶISSには今ZOZOTOWN創業者にしてお金配りおじさんこと前澤友作氏がいて、「お金を稼ぐコツはお金儲けしようとせず、人助けをすること。」的なメッセージを発信したってのをネットニュースで見た。そもそも日銭稼ぎのことであっぷあっぷな僕にとっては至極刺さらない言葉だった。blueoverの靴、欲しいなと思い調べてみると良い値段だったがこの原稿の執筆料で買える。でも多分生活費として使う。僕が今履いているワークマンのオフロード用のスニーカーは2千円。歩き方に癖があるのか、ソールの踵の内側部分だけ先にすり減っている。

間も無く陽が暮れて、夜が来て。また朝になって。今年が終わり、あっという間に人生も終わる。まだ何一つ定まらない。でも、走り続けてはいる。

自転車の錆びついたチェーンがカリカリ言ってる。空から何かが降ってくるのが見えた。

モリくんと2人で試行錯誤してみたものの、校舎に移るすべは見つからず、目下の空はいつの間にか真っ赤に染まった。その空から何かが登ってきて、天井にくっついた。それは落下してった人たちの制服や靴だった。中庭の中心に落ちてきたのはくるぶしキッカーズの面々のものだと、それぞれの個性的な靴を見てわかった。

マイキー、おかっぱ、マルコ、フォルス、ショーティ。

ふと、学校の敷地の外の道路を何かが走っているのが見えた。自転車を漕ぐその男は僕らから見て逆さまだった。

「将来の夢とかってある?」

突然モリくんが聞いてくる。俺たちは先の話なんかしたことがない。

俺は知っている。あの自転車の男は今、俺たちとこの世界の必要性とか意味とかについて考えている。そんなことは、どうか、やめてほしい。

ぽつぽつと光り始めた星を見下ろしながら、俺たちは笑って話し続けた。

本橋龍(劇作家)

1990年生まれ。さいたま市出身。演劇作家。演劇ユニット『ウンゲツィーファ』主宰。
 創作の特徴はリアリティのある日常描写と意識下にある幻象を、演劇であることを俯瞰した表現でシームレスに行き来することで独自の生々しさと煌めきを孕んだ「青年(ヤング)童話」として仕立てること。公演会場の選出が自宅の一室、空き地などから東京芸術劇場など幅広く、「野生の演劇」を自称。
 上演作品『動く物』が平成29年度北海道戯曲賞にて大賞を受賞。以降、2年連続で上演作品(『転職生』『さなぎ』)が優秀賞を受賞。北海道戯曲賞3年連続の入賞を果たす。

写真:中村寛史