靴よ - 仰く

靴よ

星野概念

靴という存在に対して、明確に感謝をしたことがあるでしょうか。僕にはその経験がかなり少なそうです。きっとこれには個人差があって、毎日靴に感謝をし、磨き、持ち物の中で何よりも大切にしている人もいると思います。僕も、靴のことを乱暴に扱っている自覚はありません。むしろ、気に入った靴が自分に馴染んでくるのを感じるとそればかりになり、概ね履けなくなるまで履き続ける傾向にあります。いや、どうなんでしょう。履きつぶす、という履き方は乱暴なのかな。「つぶす」ってついているので、不安になります。でも、つぶすために履いているわけではなく、気に入って、たくさん履いているうちにつぶれてしまうという方が感覚的には近いです。近いというか、完全に後者です。

僕にはアニミズム的な感覚があるようで、普段使ったり身につけたりする物たちにも感謝の意を抱くことが少なくありません。冬の寒い日、寒さから守ってくれた衣服に感謝をします。電車の駅から遠い自宅や勤務先への道を運んでくれる車や自転車にも、頻繁にありがとうと言っている気がします。靴と、これらとの違いはなんでしょうか。思い入れ? いや、衣服も靴も安くないわけで、買う時には相当悩みます。悩みに悩んだ上で、これだ、と思うものを選ぶので、思い入れに差はなさそうです。車は値段の桁が違うし、自分が車に詳しくないのもあり、人がすすめてくれる中でなるべく安いものを選びました。選ぶ時のこだわり度合いが思い入れの一要素だとすれば、車のその度合いは靴よりもずっと少ない気がします。高い買い物なので、大事にしなければとは思いますが、唯一無二のオマエ、といった思い入れは靴と比べると小さそうです。

靴の特殊性として思い浮かぶのは、一緒にいる時間の長さです。僕は、靴を履きつぶす派なので、履き始めたら家の外では基本的に毎日一緒です。衣服は毎日ずっと同じということはないし、車や自転車は移動の時だけの関係です。人との距離感で例えたら、靴は常にその存在が当たり前のようにある家族のようで、衣服や車は親しい仕事仲間のような距離感と言えるかもしれません。ということは、僕は一つの靴と一緒にいすぎて感謝の感覚が麻痺しているのでしょうか。いや、こう書くと家族への感謝を忘れているような連想につながってしまうな。家族への感謝を忘れているわけでは決してありません。でも、靴も家族も、距離があまりに近く、当たり前すぎる存在になる可能性があるという点で重なりを感じます。主に一緒にいる時間で距離が縮まるとしたら、他にもそのような物があります。眼鏡です。僕にとって、眼鏡は靴以上に一緒に過ごす存在です。家の中でも必須であるのが、靴との大きな違いで、眼鏡をしないのは寝る時と風呂に入る時くらいではないでしょうか。

では、眼鏡にも感謝の気持ちの自覚が少ないかというと、全然そんなことはありません。これを聞いたら、靴はとても驚くことでしょう。な、なぜ眼鏡は感謝され続けるんだ……、ともともと開いているような口を、さらにあんぐり開けたままになるかもしれません。このイメージは、靴にのみ変身する能力のあるおばけ、Q太郎(敬称略)をイメージすると分かりやすそうです。そんな靴に、話しておきたい僕の個人的な事情があります。

僕はとても視力の数値が低く、乱視も強いので、眼鏡を外すとものすごく不安になります。何かの折に、眼鏡が急に壊れたり、なくなったりしたらどうしたらいいだろうか、と時々真剣に考えます。様々な感覚の中でも、視覚に大きく依存している現代人の僕は、大袈裟ではなく、眼鏡がないと生き延びることさえできないのではないかと思います。眼鏡は命の恩人なのです。いや、命の恩眼鏡か。うーん、違う。恩物だ。命の恩物。新しい言葉が生まれた気がします。

靴はどうでしょうか。実は靴も現代で生きていくのに必須です。少し前に、基本的には裸足で生活し、ランニングなども裸足でするという人に会いました。なんてことだ、と思いましたが、その人は一般的に考えたらかなり珍しいはず。ほとんどの人は、少なくとも外を出歩く時には靴を履いています。一方、眼鏡はしていない人の方が多いくらいで、ここにももしかしたらカラクリがあるかもしれません。

自分の感覚で言えば、眼鏡は、必要に駆られて装着している実感があります。視力が十分な人は、眼鏡が必須ではありません。そんな人と比べて、自分は視力が理由で眼鏡が必須。こういう比較対象があると、必要性を実感しやすいのではないでしょうか。必要性を実感することは、求める、ことにつながりやすいです。眼鏡を求めて、選び、身にまとう。すると、視界がはっきりとする。感謝の理由が明確な気がします。

一方、靴。靴はほとんどの人が履きます。裸眼で生活する人はいるけど、裸や裸足で出歩く人はいないのが当たり前のこととなっています。つまり、靴を履くのはあまりにも当たり前のことなのです。衣服ならば季節によって変わるし、先ほどの例のように、寒いのが防げたなどのありがたさの実感が得られます。でも、靴に関しては、基本的に裸足で歩かないし、衣服のように季節などに左右されることも少ないので、靴のおかげで助かったぁ、という実感が生まれにくい気がしてきました。

いわば、靴はほぼ足です。外部からの刺激を和らげる分厚い皮膚のような感覚でいる可能性があります。身体の一部だとしたら、わざわざ感謝をし続けることをするでしょうか。究極に当たり前の存在になり、僕は靴に対する感謝を忘れてしまっているのかもしれません。「眼鏡は顔の一部です」がキャッチフレーズとなったテレビCMが随分昔にあったと思いますが、今は「靴は足のほぼ一部です」と大きな声で叫びたい気分です。ここで大切なのは、足の一部、ではなく、足のほぼ一部であることです。つまり、結局足ではないのです。足は足、靴は靴です。そこを混同すると、僕のように感謝を忘れてしまうことになりかねません。

こう考えると、靴ってとても尊いと思いませんか。他の物に比べて、ありがとうと言われる機会が少ないのに、毎日毎日こき使われる。時には存在するのが嫌になる時だってあるかもしれません。しかも、基本スタイルは、地面に接地。空を飛ぶような晴れやかな気持ちになることはなかなかないでしょう。飛行機や気球に乗って空を飛んだりしても、結局乗り物の床に接地してくれるのが靴です。綺麗な景色は楽しめません。それでも、時々ソールが曲がるくらいで、へそを曲げることはなく、存在し続けてくれます。雪の冷たさも、夏の日のアスファルトの灼熱も、一手に引き受けてくれているのです。まさに縁の下の力持ち。そう言えば、縁の下の力持ちという言葉がありますが、縁の下で何かをひっそりと支える誰かがいるとすれば、その力持ちさんが縁の下で履いている靴には、全ての重さがかかっていると言えます。すごい。この世の中で、誰よりも、何よりも、寡黙に、黙々と、とてつもなくきついことを人知れず続けているのは、もしかしたら靴ではないでしょうか。徳を積む、というのは、こういうことかもしれません。

僕はパラグライダーをしたことがありませんが、あの状態にある時、靴は何にも接地せずに空を飛んでいます。あの時の靴はどんな気持ちなのでしょうか。つかの間の晴れやかさを噛み締められているといいなぁ。普段、地面に接地し続けるのが当たり前になっていて、その世界観しか知らない靴が、大空を駆け巡る体験をした気分を想像するとワクワクします。あぁ、自分の靴に味わわせたい。パラグライダーなんて危険そうなこと、一生するものかと思っていましたが、もしかしたら自分の人生にパラグライダーをするという時が刻まれるかもしれません。これも靴のおかげです。

あれ、ちょっと待てよ。しばらくの間、自分の価値観で勝手に靴のきつさを想像しましたが、そもそも靴は地面に接地するのが嫌いなのでしょうか。接地すること自体はなんとも言えないけど、ここぞという時に踏みしめられる瞬間は何よりもたまらないんだよね、なんてことがあったりしないでしょうか。もしそうだとしたら、一連の僕のぐるぐるとした思考は、結果的に靴が踏みしめられる機会を奪ってしまうかもしれません。

僕は、日々精神医療に携わっていて、うまく言いたいことが表現できない人と接することも少なくありません。どんなことが楽しく、ワクワクして、どんなことでイライラしたり落ち込んだり、気持ちが引っ込んでしまったりするのか。そういった色々な気持ちを教えてほしいと思うけど、自分のその思いがはやりすぎると、グイグイと聞きすぎてしまったり、先ほどの僕のように想像が先走ってしまう恐れがあります。ともすると、相手は何も言っていないのに、自分の中で勝手に想像を確信に変え、それが答えだ! とばかりにエンヤコラと大爆走しそうになります。相手の思いを聞く前に、相手の気持ちを決めつけてしまうことはとても怖いことです。危なかった。僕の想像とは違って、地面に接地していない状態が靴にとって心地悪いかもしれないことを全く考えず、勇み足でパラグライダー場に出かけるところでした。

靴は何を感じ、何を思っているのでしょうか。

靴と対話できたら、とても面白いような気がしてきました。色々な場所に靴と出かけてきましたが、同じ場所にいても靴と僕では視点が全く異なります。靴から見た、こんな靴の持ち主はこんな感じの人が多い、みたいな話はあるのでしょうか。靴の汚れ方を見て、住んでいるところのあたりをつけたりする特技を持っていたりして……。いや、これらは僕の想像の範疇なので、きっともっと予想外の靴目線があるはずです。気になるなぁ。

今、ふと、玄関の靴置き場に行ってみました。そこには、最近いつも履いている靴が無造作に脱ぎ捨てられていました。しばらく見つめてみましたが、靴の思いは想像できませんでした。靴が収納されている棚も開けてみました。履きつぶして履けなくなった靴が数足入っていました。

そういえば、履けなくなった靴を眺めるのが僕は好きです。しばらく眺めていると、その靴を履いていた頃の記憶たちが、小さな泡のように、少しずつたくさん蘇りました。とてつもなく薄味の苦みや甘酸っぱさが、チクっと自分を刺激してすぐに消えていく。マイクロバルブのような、なんとなく嬉しい時間でした。履きつぶした靴は、とても地味なタイムマシーンになることが分かりました。

靴はいつもそばにいます。ただ、いるだけ。それがどんなにすごいことか。履きつぶされて様々な体験をともにした靴が、現役引退後に今度はただ棚の中にい続けるだけで、時空を行き来する不思議な力を持つことからも、それは確かなことです。

星野概念 ほしの・がいねん

精神科医など。精神科医として働くかたわら、執筆や音楽活動も行う。雑誌やWebでの連載のほか、寄稿も多数。音楽活動はさまざま。著書に、いとうせいこう氏との共著 『ラブという薬』(2018)、『自由というサプリ』(2019)(ともにリトル・モア)、単著『ないようである、かもしれない〜発酵ラブな精神科医の妄言』(2021)(ミシマ社)がある。

写真:中村寛史