足が見た夢 - 仰く

足が見た夢

青柳菜摘

足は考えている
ぼくは、足が考えている
心の存在を部位にしめすとき、人間には
心臓は心とつく言葉であり
ただし思考は脳が処理をしていると言う
ぼくの場合は、足が考えているのだ

足は歩くのにうんざりしている
くるぶしのあたたかさや
巻爪の食い込みが
自動券売機の複雑な選択問題に難なく
回答し
換気のために開けられた隙間から
これまで車窓だけが
感じてきた風をその身に
受けている
あいだも、足は身体を支えている
夢を考えようとするがしかし

電車に乗って座席に座ると正面に
座る人の足が目に入る
正面の人と目が合わないように伏せているから
目は足と合っている
足は足を向いていた
移動しながら足を動かしていない
あいだの
ぼくは、足が考えている
もっと頭を垂れると見えてくる
自分の足
目が足を見ると
考えていることがわかる
夜に夢を見ようとする

身体が重いことに気づかなくなったのは
体重計が発明され
上に乗るとぼくは数値になったからだ
キログラムのぼくが触れた体重計の先から
重さではなく数値として地に立った
金属に触れるといくつかの数値が表示された
足は数値を支える数、2本だった

ベッドに入ると
重さだった数値から
足は解放されて
考えることができるようになる

足が考えることを
夢、と呼ぶ
足が見る夢は
移動のあいだに
身体を支えながら
透かし見る現実

昆虫は脚が3本ずつの対で6本あると習ったのに成虫になったチョウは4本脚だ、ぼくはあたりまえのようにチョウが実際は4本脚だったのだと思い込んだけど、ほんとうはチョウは一番前の脚をあまりに上手にしまっているだけで隠した2本はいつまでたってもみつけられないままぼくのなかの事実になって、だからチョウも動物も2人分の足。ということは蜘蛛は4人で昆虫は3人なのだった。

自転車に乗ったまま
バスに乗り上げた身体は
水を弾いて陸地に上がる
濡れたまま足を数え終わると
6本が伸びていた

バスから降りた足は
海辺の公園を遠望する
足には視覚も聴覚もないが
身体がついていてそこには手も鼻もあり
お腹もすいた
ぐう
遠くの岩場に穴があるな
穴は
からっぽだった
から、波だけが動いていた
尾ビレが見え、そこにイルカがあり
海底を轟かせる海竜が
波間を出入りする
ネイチャーセンターは足を心地よく誘う
足は気分が良い
穴に近づくとガラスが張ってあり
どこまでも近寄れてどこまでも近くへは行けなかった
波間の足が9本を越えたとき
Follow me screenとアナウンスが流れる
足元のバケツには小蟹がうごめいていて
足を食べあっている

身体は流れる

ある湖はどの水源からも離れた僻地にあったが
それゆえに人が住めた
西の端に街があり
暮らす人たちが街を出入りする統計を取ると
増減に合わせて湖の水位が変化するという

この湖はどこから来たのか
水量を調べてみると
ちょうど街の人々の身体に含まれる水分と
湖の水量がぴたりと合う

足は知っていた
足が支えているものは液体であった
液体は動くものだから
足は液体が動いているあいだ
支え続けていたのだった

湖の水源である街人たちが
あちらこちらへ彷徨するたび
静かな水面は波を立てる

原宿駅は淡路町の迂回駅になっていてアクセスが悪いから
ほとんど崖な一方通行坂を登る
諦めて別の駅まで歩こうとすると
坂下で呼び止められた
振り向くと立っている姿は波だ
波は
彼でもなく行くでもなく
穴から見えた波だった
これ、
と渡されたファイルを開くと
足の数別に生きものがまとめられている
一番本数が多いものはなんだろうと気になって
うしろのページを開くとだいたいが植物だった

ネイチャーセンターに住む波は
あるときはとどまって
あるときは足に連れ立って
遊歩する足の夢を観測した

青柳菜摘 あおやぎ・なつみ

1990年東京都生まれ。ある虫や身近な人、植物、景観に至るまであらゆるものの成長過程を観察する上で、記録メディアや固有の媒体に捉われずにいかに表現することが可能か。リサーチやフィールドワークを重ねながら、作者である自身の見ているものがそのまま表れているように経験させる手段と、観客がその不可能性に気づくことを主題として取り組んでいる。2016年東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修了。近年の活動に個展「亡船記」(十和田市現代美術館, 2022)、NMWA日本委員会主催展覧会「New Worlds」(M5 GALLERY, 2022)、オンラインプロジェクト「TWO PRIVATE ROOMS – 往復朗読」(2020-継続中)、第10回 恵比寿映像祭(東京都写真美術館, 2018)など。詩集『そだつのをやめる』(2022)で第28回中原中也賞受賞。コ本や honkbooks主宰。

写真:中村寛史