革靴と王子様
曽我部恵一
息子の高校入学に際し、制服一式を新調することになった。
入学前の春休みに、寸法を測る会があり、それに息子とふたりで出かける。学校に設けられた会場には、ぼくらと同じように少し緊張した面持ちの親子が何組もおり、シャツ、ズボン、ブレザーなどひとつずつ採寸していく。
自分の学生時代に、このようなことはなかった。ずいぶん丁寧に、学生服をあつらえさせるのだな、と感心した。感心したが、制服一式と、体育着やカバンなど(ベルトまで学校指定!)を合わせると、総額10万円近くになり、ぞっとしたのだった。
しかし、靴に関しては、「黒の革靴」ということだけが決まっていて、学校のものを買っても自分で好きなものを用意しても良いということだった。参考に、学校のものを見てみると、合皮のプレーントゥで7千円程度。採寸をしてくれた業者さんは「合皮ですし、強くおすすめはしませんが」と小声で言ってくれた。たしかにそうだ。ほぼ毎日履くことになる大事な一足だから、ちゃんと選んで買おう、とぼくは息子に言った。息子も「わかった」とそぞろに応えた。
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ぼくは中学高校が一貫の学校へ通っていて、中学から黒の革靴だった。学校指定のものがあって、最初はそれを履いていたが、中学2年から熱中してしまったパンクロックの影響で、高校に上がる前には、ドクターマーチンの革靴で登校するようになった。
学校の靴だということで、親にお金を出してもらって、初めてのドクターマーチン、黒のプレーントゥを手に入れた。当時、ドクターマーチンはすべからくUK製だった。
嬉しくて、履く前の日は、自室で眺めて過ごした。本当は革ジャンやモッズパーカー、ラバーソールやポークパイハットも、喉から手が出るほど欲しかった。しかし、小遣いをいくら貯めたところで、なかなか手が届くものではなかった。だから、雑誌やレコードジャケットに載ったそれらのモノたちの写真を、ただただ眺め回して過ごした。
そんなぼくだったから、そのドクターマーチンは、自分とパンクロックをはじめとするイギリスの若者文化を繋げてくれる、最初のものとなった。レコードを聴いているだけじゃ得られない、「その一部になった」ような感覚があった。
学校へ履いていくとき、学校指定じゃないので注意を受けるかと思ったが、意外と教師からは何も言われなかった。黒いピカピカのドクターマーチンは、ちゃんとしていて、先生には不良のアイテムだということは分からなかったのだった。
ぼくはその靴が自慢だったし、だれにも気づいてもらえないとしても、ぼくはイギリスの若者たちの気持ちと繋がっているんだと、勝手にいい気分になっていた。毎週のようにオイルを入れ磨き上げた。制服のズボンもくるぶしあたりの丈にして、靴がかっこよく見えることを意識した。もちろん、彼女はいなかった。当然、童貞だったが、それを早く卒業したいという考えもなかった。ドクターマーチンをかっこよく履けているかどうかのほうが、よっぽど大事なことだった。そのある一時期において、その靴はぼくのアイデンティティそのものだったと言える。
しばらくして、貯めたお金で同じくドクターマーチンのサイドゴアブーツを買った。14ホールのブーツと迷ったが、そちらは自分にはちょっとハードだと感じた。チェリーレッドもいいなと思ったが、学校に履いて行く可能性を考え、黒にした。しかし、さすがに履いて行った時は、教師に見つかり、「お前それはちゃうんとちゃうか?」と咎められた。
ジョージコックスの黒のスエードのラバーソールも手に入れたし、突然流行ったヒップホップ(というか、ランDMC)の影響でアディダスのスーパースターを紐を外して履いていた時期もあったが、その後にいちばん大切に思えた靴は、ロークの赤茶のタッセルローファーだった。
ロークはドクターマーチンよりもうちょっと「ちゃんとしてる」英国の革靴メーカー。小さな洋服屋を営む地元の先輩が「ロークの方が、ええで」などと言って、細かな違いなども含め教えてくれた。その人におすすめされ、その頃はいつもそうだったが、何週間も悩んだ挙句、買ったのだった。ぼくにそのような文化のいちばん重要な部分を教えてくれた、その人や他にも数人の先輩や友人には、今でも心から感謝している。そういったことが、現在のぼくを作ったのだと思う。
大学に入学した初日には、そのロークのタッセルローファーを履いて行った。ぼくが育った四国と違って、だれかがこの靴は特別なんだと気づくかもしれない。そう心の隅を期待で膨らませながら、華やかな大学の校内をひとり歩いた。友だちは一人もいなかったが、ぼくの靴に気づく人が、友だちになる人だと思っていた。
「ねえねえ」と声をかける人がいた。振り返ると、マッシュルームカットの男子が立っていて、「ロークのローファーいいじゃん」と言った。期待していたはずなのに、あまりに急なことに返事に詰まっていると「きみ、音楽好きでしょ。うちのサークルに入んなよ」と言われた。ついて行くと、空いた教室に他のサークル員もいて、みんなクセのあるような人たちだったが、どこか朗らかで、ぼくはここにいたいと強く思い、その日からサークル員になった。
「クラブDJ」というサークルで(入るまでなんのサークルかも訊いていなかった・・・!)、もともとはラジオなんかのDJを志すようなところが、今はレコードを回すDJに変容しているとのことだった。ぼくに声をかけた人は3年生で、バンドもやっていると言っていた。上京して初めてできた知り合いがそのような人たちだったので、ぼくは完全に安心してしまった。もうぼくの人生は半ば上がりだ、というような感覚。音楽好きな人たち、ロークのタッセルローファーの良さをわかってくれるような人たちと、そのような会話をして過ごす。それでいいじゃないか、と思えた。
毎日レコード屋や服屋に通い、肝心の大学の授業には全く出ず、その人たちと話したり遊んだりして過ごした。そしてぼくは、単位をほとんど取ることなく、見事に中退となった。まったく、無為で貴重な時間だった。もうあのようなときを持つことはないのだと思うと、とても残念に思う。
地元にいたときには、そういう話をできる人は、もっと歳上で、みんな働きながら、お金を服やレコードにつぎ込んでいた。ぼくはただの高校生だったので、くっついて歩くことでいっぱいいっぱいだった。彼らが、時折見せる、子供みたいな笑顔が好きだったし、高校生には言えないような本当の冗談を聞くと、かっこいいな、いつかこんなふうにぼくも振る舞えるのかなと思った。
しかし、50歳を過ぎてもぼくは、その頃の彼らのように、ふと子供みたいにバカ笑いすることも、生活の隙間からぐっと手を伸ばすような冗談も言えずじまいでいる。相変わらず、何かをフラフラと追っかける高校生のような気分で、生きている気がする。
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息子の学校の靴。それを買いに、ぼくと息子は渋谷のドクターマーチンへと向かった。
勝手にタッセルローファーにしようと決めていた。息子に「タッセルローファー、いいんじゃない?」と聞くと、「なにそれ?」と言った。じゃあ、見て決めよう、とお店へ入った。
感じの良い、ちょっとゴス風の女の子が接客してくれた。「すみません。タッセルローファー、ありますか?」と声をかけると、「はい、こちらに」と言って案内してくれた。今でもタッセルローファーは、お店のちゃんと良い場所にあって、ぼくは少し嬉しかった。
息子に「これこれ。どう?」と言うと、「あー、いいんじゃない」と応えたが、その口調には「なんでもいいんじゃない」という意味合いが多分に含まれている気もした。2024年の中3・高1だ。彼の中に、英国若者文化への憧れがあろうなどとは、ぼくも期待していない。
しかし、彼は高校に入ってロックを聴き始めるかもしれない。もしかしたら、ヒップホップかもしれないけど、ひょっとしたらロックを好きになって、オアシスあたりから入って、そこからもうほんの少し遡ったら・・・。そうしたら、彼はこの靴のかっこよさに気づくかもしれない。そんな親としての妄想を、ぼくはこの日の買い物に仕掛けたのだった。
お店のお姉さんはその日たまたま、同じローファーを履いていて、「最初はきつめのサイズにしておかないと、一年くらいでワンサイズくらい伸びますからね、ローファーは」と言って「私のも、ほらこんなに」と、少しゆとりのある自分の靴を見せてくれた。「これ、最初は、めっちゃきつかったんです」
息子は、高校に通い出して1週間くらいは「足が痛い〜」と半べそをかいていたが、そのうちなにも言わなくなった。今は、いい感じに味が出始めたドクターマーチンのタッセルローファーが玄関にある。
革靴の手入れの仕方や磨き方も教えなきゃと思いながら、そんな機会を持てぬまま、時間が過ぎてしまった。これから自分はいくつ、大切なことを子供たちに伝えることができるのだろう、と考える。そう考えて、途方に暮れてしまう。
しかし、思い返すと、自分も革靴の磨き方を親から教わったわけではなかった。ネットのない時代、雑誌や本だけが頼りだった。そうじゃなければ、ラジオだ。それらが、親よりも親だった。そう思うと、少し安心する。この子たちにとっても、親よりも親なものがきっとあるはず。そう考えることにして。
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ぼくに「ロークのローファーいいじゃん」と声をかけた人は、のちに、自分のバンドもやりながら、ぼくのバンドのサポートギタリストにもなってくれ、ずいぶんと助けられた。この夏も、神戸で一緒に歌った。
サークルの同学年の友人と、定期的に食事会をするようにもなった。20数年の時を経て。
最初に買ったドクターマーチンも、ロークのタッセルローファーも、サイドゴアブーツもコックスのラバーソールも紐なしスーパースターも、どこかに消えた。でも、ぜんぶが存在していて、ぜんぶがちゃんと繋がっているんだなと、近頃ではわかるようになってきた。
わかるようになってきたぼくは、この夏は、佐内正史さんがドンキホーテでぼくのために買ってきてくれたサンダルを履いて過ごすことが多かった。黒のサンダルでゴールドの星のマークが入っていて、カッコいいのだ。
(2024.10.11 深夜 SYMARIPのLP『Skinhead Moonstomp』を聴きながら)
曽我部恵一
1971年8月26日生まれ。乙女座、AB型。香川県出身。
'90年代初頭よりサニーデイ・サービスのヴォーカリスト/ギタリストとして活動を始める。1995年に1stアルバム『若者たち』を発表。'70年代の日本のフォーク/ロックを'90年代のスタイルで解釈・再構築したまったく新しいサウンドは、聴く者に強烈な印象をあたえた。2001年のクリスマス、NY同時多発テロに触発され制作されたシングル「ギター」でソロデビュー。2004年、自主レーベルROSE RECORDSを設立し、インディペンデント/DIYを基軸とした活動を開始する。
以後、サニーデイ・サービス/ソロと並行し、プロデュース・楽曲提供・映画音楽・CM音楽・執筆・俳優など、形態にとらわれない表現を続ける。
http://www.sokabekeiichi.com
写真:中村寛史