家族の歴史を歩き直す
植本一子
今年で戦後80年になる。広島に生まれたわたしは、今年で41歳になった。
この41年間、どんなふうに自分の人生を歩んできたのだろうと考えると、ひたすら自分について考えてきたのではないかと思う。物心ついてからは特に、周りにいる人たちを通して自分と向き合う時間が長かった。職業を聞かれれば写真家としているけれど、それできっちり稼げているかといわれれば謎で、自営業らしく常に収入は安定していない。さらにいつからか、文章も書くようになり、今ではインタビューなんかのプロフィールに「文筆家」と記載されることも多いけれど、文筆家なんて自信はまったく持っておらず、その都度消してもらっている。写真と文章、どちらの仕事の比率が高いですか?と聞かれることもあり、半々か、でも労力としては文章のほうが多い。写真家と名乗るのも、一度新人賞を受賞したことがあるからで、まあこういう世界は自信のある人がどんどん大きくなっていくものだよな、と思う。
それでも続けてこられたのは、自分の目で見たもの、言葉でつかんだものしか信じない、という性格のせいかもしれない。いつまで経っても自分の肩書きに自信がいまいち持てない。それでもなんとなく仕事が続いていて、暮らしが成り立っているのが自分でも不思議なのだ。
では、自分は何なら自信が持てるのかといえば、「自分は自分のプロである」ということくらいだろう。41年間ひたすら自分をやってきた。自分から逃げだしたくなることも、心底嫌になることも何度もあったけれど、やっと自分を引き受けられるようになってきた、という実感がある。わかりやすくいえば、自分であることが楽になった。写真でも文章でも、わたしはひたすら自分と、自分の周りの人とのことを記録してきた。それは、自分がどんな道を、どう歩いているのかを確かめるための試みでもあったのかもしれない。
多かれ少なかれ、すべての人が自分という現象について考え続けていると思う。自分はどこからきてどこへ行くのか。また、自分の持つ苦しさの原因はなんなのか。普通であれば仕事のかたわら、頭の隅でときどきやるようなことを、わたしは書くこと、また撮ることで仕事にしてきた。自分の働き方というか、こんな生き方ができているのは奇跡かもしれない。全員が全員こういうふうにできるわけではないと思うと不思議でもあり、でもわたしにはこういうふうにしかできなかった、とも思う。
最近だいぶ楽になってきた「自分を生きる」ということだけれど、とはいえまだまだ課題も多い。今年の「戦後80年」をよく耳にするようになり、広島出身のわたしはいろいろ思うことがある。
母は35歳でわたしを産んだ、高齢出産だった。当時は珍しかったようで、小学校の授業参観など、自分の母だけ年齢が少し上であることに、なんだか引け目を感じていたのを思い出す。わたしには9歳離れた兄がおり、80年代の荒れた学校生活でまんまとドロップアウトし、心根は優しいけれど、相当に落ち着かない日々を送っていた覚えがある。小学校低学年の頃に高校生だった兄との接点はほとんどなく、今でも年齢の近い仲のいい兄妹を見ると、味方がいるようでうらやましくなる。あの頃、家は大変だったが、母も父も、そんな兄という息子を、その環境下に置かれた幼い娘を、どう思っていたのだろう。そして9歳という年齢の差に、何があったのか、なかったのか。
そういった家族の歴史を、わたしは誰にも聞けたことがない。
これまで自分について考え続け、研究のように書き続けていたけれど、それは自分の半径数メートルほどの距離にいる人たちとの関係を通してのものだった。18歳のときに広島を離れ、東京に出てきてからは、物理的にも自分が生まれた家族との距離が離れた。わたしには高校2年生と中学3年生の娘がおり、今も一緒に暮らしているけれど、彼女たちが18歳で親元を離れるかもしれないと思うと、それだけでさびしくて胸がぐっと締め付けられる感覚がある。娘たちには、自分の気持ちを押し殺さずに、安心感を感じながら歩いていってほしいと思っている。完璧な親ではいられないけれど、せめて、何かあれば話せるような場所ではありたい。娘たちとの関係は、わたしが思うに良好で、わたしが東京に出ることを決めたときのような、家族から離れたい、この場所にいたくない、という切迫した気持ちはおそらくないであろうと、今は思っている(実際はわからない)。でも、そう考えると、18歳やそこらで親元からどうしても離れたかった当時のわたしは、ものすごく張り詰めていたなと思う。相当な負担と、でもここにはいられないという焦りと同時に、新しい場所へ進むんだ、という希望があった。
母はそうやって自分から離れていく娘をどう思っていたのか。そんなことをふいに、自分を母に重ねて考えるようになったのが最近のことだ。今の自分の年齢の頃、当時の私はまだ6歳。今の自分に小学校に入学するくらいの娘がいると考えると、それは体力が大変だろう、とか、兄は高校入試を控えているはずで、そっちも不安だろう、とか。父はちゃんと育児に協力していただろうか、祖父や祖母は、と考えると、あまり楽観的なことは思いつかない。なんといっても時代が違う。家父長制が当たり前の世の中で、父は性格が優しくて、というより気の弱い人だったけれど、それでも上座に座らされていたし、家事はすべて女性側の仕事だった。気の強い祖母と折り合いの悪かった母は、わたしに「結婚なんかしなくていい」と言っていた。真意を確かめたことはないけれど、その言葉に込められた苦しみを感じることが今ならできる。母はつらかったのかもしれない。そしてもしかしたら父も。
今年おそらく76歳になる母も父も、戦後すぐに生まれたことになる。広島に生まれたとなると、原爆のことは切っても切れない。夏には必ず平和教育があったし、その一環で、もう何度平和記念館へ通ったかわからない。生まれて41年間、8月6日というのはやはり特別で、8時15分に起きていれば必ず黙祷をする。東京へ来てからはその時間にNHKのテレビをつけ、記念式典を見る。私が幼いころは、すべての放送局がその日は平和特番を流していたように記憶しているけれど、今ではNHKだけで、広島はまた違うのだろうか。
実家は爆心地からは相当遠い場所にある。それでも祖母は、山の向こうにあのキノコ雲が見えたと言った。祖母は今年103歳、まだ生きているけれど、施設に入ったと聞く。もうそんな言葉を聞くことは難しそうで、どうして元気なころに聞けなかったんだろうと後悔する気持ちもある。そう考えると、母に、父に話を聞けるのに、そんなに時間は残されていない。
母と父が歩いてきた道をたどることは、その上の世代が背負っていたものにも目を向けることになる。もう聞くことのできない祖父母の人生や、沈黙の中にあった記憶に、今さらながら触れてみたいと思うようになった。
祖父に戦争のことを聞いたことがあった。東京から帰省したときだったと思うので、わたしはすでに二十歳を超えていたはずだ。祖父が亡くなる数年前のことで、思えば、あまり思い出したくないことや言いたくないことを、伝えようとしていた祖父の姿が今でも思い出される。その姿は自分の中に残っているが、言葉として覚えているのは「中国」「満州」「ヒルがたくさんいた」といったワードくらいで、祖父が言葉にならない思いを必死に伝えようとしていたのが胸に残っている。どんなふうに戦争に参加することになったのか、何を思い、考えていたのか、当時のわたしには聞くことができなかった。そして、祖父は夜中によくうなされていた。どんな夢を見ていたのか、もし苦しみを抱えていたのなら、それを語れる相手は周りにいたのだろうか。
自分について考えるには限界があって、最近、楽になるのと同時にそこにつき当たったような気がする。少し気持ちに余裕ができて、考え始めたのが、やはり母と父のこと、そしてその上の世代のことだ。話ができるうちに、母と父に聞いてみたいと思っている。どんな人生を歩いてきたのか。何に迷い、何を選んできたのか。父には、男性として、家の中で下駄をはかされていたことについてどう感じていたのか、あの時代の「男らしさ」とか「父親らしさ」について考えたことがあるのか、聞いてみたい。父を責めたいのではなく、あの時代に「男として」生きることにどんな葛藤があったのかを、ただ聞いてみたいのだ。そして母には、「結婚なんかしなくていい」と言ったその言葉の奥にある思いを、少しでも聞いてみたい。
親が子に与える影響は本当に大きく、それでわたしは苦しんできた。そんなわたしを作った母や父は、一体どんな人だったのだろうかと考えると、自分の苦しみのヒントがそこに隠されている気がする。母のせいでもあり、父のせいでもあり、同時に時代のせいでもある。戦後の混乱の中で生まれ、戦争を生き抜いた人たちに育てられ、社会の常識がどんどん変わり振り回されながらも、自分の大切なものを守ってきた人たちの末端に、わたしはいる。わたしは社会や時代の影響を受けている。これまで自分の苦しみは母のせいだと思っていたけれど、そんなに単純なことではないのかもしれない。
私がこれからどうやって人生を歩いていくのかを考えていくうえで、母が、父が、家族がこれまでどんなふうに歩いてきたのかを考えることが、私のこれからの人生を、もしかしたら今よりも楽にするかもしれない。それと同時に、娘たちとどう歩いていくかを、丁寧に考えたい。どんなふうに対話を重ねていけるか、どんなふうに自分の足で歩いていけるか。私が「聞きたかった」と思っていることを、彼女たちが「話せる」と感じられるような関係でいられたらと思う。
植本一子 うえもと・いちこ
写真家。1984年広島県生まれ。2003年にキヤノン写真新世紀で優秀賞を受賞。2013年、下北沢に自然光を使った写真館「天然スタジオ」を立ち上げる。主な著書に『かなわない』『愛は時間がかかる』、写真集に『うれしい生活』、小説家・滝口悠生との共著『さびしさについて』などがある。主な展覧会に「アカルイカテイ」(広島市現代美術館)、「つくりかけラボ07 あの日のことおぼえてる?」(千葉市美術館)。
写真:中村寛史