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 かつてルーマニアの地方では靴は貴重なものであり、服装と同じくステータスを示す非言語の表象でもあった。階層社会の西洋全体がそうだった。ファッションの歴史も人々の上下をカテゴライズするところから始まり、後には植民地化の歴史ともつながった。スペイン人、ポルトガル人、イギリス人たちは船に乗って新しい地を「発見」し、その土地を元々そこに住んでいた人々から奪い、その結果彼らを人間以下としてカテゴライズした。そうして、「裸で動物に近い」、「肌の色が白くない」など、人種差別のドロドロした沼から出たような言葉の世界が現れた。ここでは、「裸」というキーワードが大事だ。見た目ですぐ判断できる先住民の表象だと思われた。文化という言葉ですら現代では古錆びた言葉なので、「文化」対「自然」という二項対立は西洋中心的な世界の見方にしかすぎない。文化は最も発展した文明人にしか持つことができないとするのは差別でしかない。

 これに対して、マリノフスキなどの文化人類学者は、100年前から先住民と共に暮らし、言葉を覚え、同じものを食べ、彼らの内側に立ちながらその人間性を取り戻そうとした。だが、それでもなお多くの人は文化人類学者が報告するそうした先住民の暮らしに触れる時、アメリカを発見したスペイン人と同じような反応を見せるだろう。現地の人たちが自分達と異なる服装をし、服や靴を着けない姿をした瞬間に、彼らはその見た目だけで差別されるだろう。西洋的な社会より複雑な言語や親族関係のシステムを持っていたとしても、あるいは周りの環境を認知する能力や知恵が優れていても、それらは服と靴がないために今も見落とされる。西洋的な考え方では、服と靴、ブランド品などがより貴重なのだから。ところが、向こうの社会では、宝貝、動物、葉っぱの方が大事なのであって、これはただの価値観の問題なのだ。視線を変えると何が大事なのかそれぞれ違うのだ。

 西洋人たちは南米の山間地で「発見」したジャガイモを野菜として利用することなく花を帽子の飾りにしていたという。現在私たちが親しんで食べているようにジャガイモを西洋で食べるようになるには長い時間がかかったそうだ。もしその光景を先住民が見ていたら、美味しいイモを捨て花だけ飾る西洋人はなんと不思議な生き物だっただろうか。これだけならば可愛く見えるが、西洋人が植民地にもたらした疫病や彼らが行った収奪を考えると決してそんなことはない。風呂に入らず排泄物を窓から道路に投げ捨てるなど、かつての西洋人の方こそ「文明」とはほど遠い存在に見えて仕方ない。

 服と靴を身につけ、風呂に入らないために肌の色が白いがかなりの体臭と想像がつく彼らだが、文字も持っていた。ほとんど男のすることだったが、本を書き、それを読む知識人の集まりを作り、政治や契約のさまざまなメカニズムによって自分達が他より優れた人間であるとの言説を生み出し、世界を支配し続ける。けれどもそれも西洋の一部、つまり西ヨーロッパの歴史である。靴、ドレス、宝飾品などは植民地から無理矢理奪い取った原材料で作っていた。土地と物資を奪う歴史、肌の色で人を差別する人類の歴史は恐ろしい。

 イエズス会の奴隷としてアフリカから連れてこられた弥助の話に驚いたのは、彼が織田信長に気に入られて家来になったことだ。当時の日本は西洋とは考えが変わっていたのだろう。イタリア人宣教師に伴われた黒い肌の弥助を見た信長は、それが自然の肌色だとは信じられず服を脱がせ身体を洗わせてみたという。たくさんの人が集まって、珍しいものとして見ていたとも書かれている。『南蛮屏風』の中では象に乗って登場する宣教師が描かれて、周りは何人かの召使いの人がいるが、よく見ると彼らは裸足だ。宣教師と違って全員が裸足というのは、先ほど話したように靴を履くということが西洋ではステイタスを表していたからだ。

 靴を履きたければみんな誰でも履けばよい。民族によって靴のデザインや履き心地は違っていていいし、生活環境によっては履く必要がない。ヨーロッパでは、ローマ帝国の時代サンダルなどの履物があった。移動や戦争などが頻繁であったので足を守るため、階層社会の位置づけとしての美学的な意味合いもあった。西洋では靴の歴史は実に深いが、先に述べたように靴がなくてもいい民族がいる。それは「未開」だからではなく、我々の生き方と環境と違うからだ。そして現代は違いを理解することが大事な時代でもある。

 例えば、奥野克己という日本の文化人類学者が語る興味深いエピソードを紹介しましょう。奥野さんはボルネオ島の狩猟採集社会のプナンを20年前から研究されていて、たくさんの本の中で狩猟採集社会の生の在り方と世界の見方など詳しく描いた。一度読んだらプナンの世界観に連れられて、自分自身の生き方を変えたくなるような読書経験でもある。子育てから、周りの環境の意識、食べ方まで私たちと違っても私たちより優しさを感じることは確かなのだ。例えば、狩りをした動物の肉をみんなで分かち合うことなど。

 『絡み合う生命』の中で裸足にまつわるエピソードがある。奥野さんは何ヶ月かぶりに町に出ることにした。プナンの三組、父子7人は一緒に行くと言い、ついてきた。普段から森に住んでいる彼らにとってコンクリートの街はどう見えたのか。車から降りると父二人と子供3人が裸足だったことに気づく。奥野さんも今まで一緒に狩猟キャンプで彼らは裸足だったことに対して何も思わなかったのに街という空間だからか気になり始めたことが不思議だと思った。

 プナン語では「裸足」という語がなく、「裸足こそが、足の常態なのである」(奥野、2022)という。つまり、狩猟をする民としては靴の必要性を全く感じないし、逆に走る時、歩く時、獲物を追いかけている時に靴を履いたら音がする、足の裏の感覚を感じないなど危ない。狩猟をするというのは周りの環境を全身で把握し、私たちと全く違う身体能力、というより、私たちよりすごい身体の持ち主であると明らかなのだ。地面を裸足で歩いて、地面のエネルギーを感じながら獲物との関係が生まれるかもしれない。この鋭い感覚を保つため彼らにとって靴を履く必要はない。街に出て初めて「サンダルを履いてない」と気付かされて、サンダルを買うのだが二人は否定しそのまま裸足で街を歩いた。

 このエピソードを読んだ時、自分の子供時代を思い出した。実は私もルーマニアの森の近くの小さな村に住んでいた長い間、裸足で暮らしていた。ルーマニアの農民は昔から裸足だったから、私の時代まで家の周りや畑では裸足でいるのが普通のことだった。靴と服は贅沢なもので、昔の日本と同じく晴れの日だけのおしゃれだった。街や教会に出かけるとき、身体を綺麗に拭いて綺麗な服を身につけて行くという習慣があった。それもとても違和感を感じた。村の子供たちと一日中肌着一枚と裸足で遊んで泥まみれになり、夕方家に戻って晩御飯を食べてすぐ寝る。最初に書いたようにヨーロッパの家は風呂がないため、一日中裸足だった足だけ洗うという習慣があった。足を洗うことがとても神秘的なことに感じた。その時の自分は足のほうが他の身体の一部より大事だと感じたかもしれない。

 裸足で歩くとたくさんの怪我もする。よくあったのは植物の棘が足に刺さること。痛いのを我慢して自分で針を用意し、足の裏を棘が出るまでゴリゴリし削り無事に取り出す達人だった。遠く離れた畑でノウサギを追いかけた時に足を枝で切ったことがある。たくさん血が出て、しばらく足の指が痛かった。その時、たくさん血管が切れたかもしれないが、祖父母の伝統的な治療ですぐ傷が閉じて、次の日からまた裸足で走り回った。

 靴を買ってもらうことが特別なことだったのをよく覚えている。毎年、春の復活祭の前に両親に新しい服と靴を買ってもらったけど、いつも靴だけは私の足に合わずよく靴ずれしていた。たまに奥の部屋にしまってあった母の若い時のハイヒールを履いて、母親の花嫁ドレスも着て、家の中でファッションショー遊びをしたこともある。すぐ飽きて裸足で村の子供と遊んだが。

 それに、ルーマニアでは死者に靴を履かせる。村の年寄りは自分の死を迎えるため、自分の葬式だけに正装する服を揃え、靴も準備する。どんな田舎でも、毎日どれだけ裸足で畑仕事をしても、死ぬ時は必ず新品の靴を履くのだ。葬式に来た人たちは死者とお別れする時に必ず注意深くお洋服まで見て、後で服装についての噂を広げる。どんな服を着たのか、どんなお葬式だったのかについて。このようにして、死者の面目が死後でも保たれるだけではなく、あの世へも綺麗な服と靴で行くことができる。私の祖母はとてもセンスが良かったので、近所の人は私が日本からプレゼントした黒い靴が欲しいと言い出したが、私はだまって棺に入れ、あの世で履けるように願った。

 祖父が亡くなる前に入院した時、面会に行った。急な入院のためにスリッパを持っておらず、トイレに裸足で行くのが辛いから「孫よ、明日はスリッパを持ってこい」と頼まれたのだが、彼は翌日亡くなった。私はしばらく祖父の夢を見続けた。夢でも彼は私にスリッパを頼み続けた。おじいちゃん、あの世で裸足にさせてごめんなさい。

イリナ・グリゴレ

文化人類学者。ルーマニア生まれ。2013年東京大学大学院博士課程に入学。青森県内を主なフィールドに獅子舞、女性の身体などをテーマに研究している。また2023年からバヌアツで女性に関するフィールドワークを開始している。著書に『優しい地獄』(亜紀書房、2022)。

写真:中村寛史